今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

東海道(20)二川~吉田宿~国府 その3

 

2023年10月6日

 

西惣門

 

 本陣や脇本陣が建ち並んでいたかつての吉田宿の中心街を抜け、松葉公園が角にある交差点を右折してしばらく歩くと、蒲郡街道(国道23号)との交差点に着きます。横断歩道を渡った右手には西惣門のミニチュアが建っています。西惣門は吉田城大手門を移築した湖西市本興寺惣門を参考に造られました。

 

 蒲郡街道を横断した先の信号のある交差点を左折します。すぐそばを豊川が流れています。


 右手に湊町公園があるので、寄り道をします。

 

 公園奥を左に入ると、湊築島弁財天社があります。築年代は棟札から、寛政7年(1795年)と確認でき、国の登録有形文化財に指定されています。

 

 社の前には芭蕉の句碑が立っています。旅寝塚とも呼ばれています。

 寒けれど 二人旅寝ぞ たのもしき

 三河地方へ追放になった芭蕉の弟子の杜国と合うために、名古屋の俳人越人と杜国のもとへ向かう際、ここ吉田で詠んだ句だそうです。寒くても二人旅をする安堵感が現れているようにとれます。裏を返すと、一人で旅する辛さを表していたのかもしれません。

 

 弁財天の社の前を通り橋を渡ると鳥居をくぐります。下の写真は振り返って弁財天社側を見ています。

 

 鳥居を抜けると湊神明社があります。祭神は天照大神で、創建は白鳳期(661~683年)と言われています。例祭のおんぞ祭は伊勢神宮へ白絹布を奉納する神事で吉田の三大祭のひとつとされています。

 

 東海道に出るとすぐに、船町交差点に出ます。ここを右折します。

 

 そして、豊川に架かる豊橋の袂に出ます。橋の手前を左折して吉田湊跡へ寄り道します。

 

 下流へ少し歩くと川沿いの道の左手に小さな公園があります。

 

 このあたりが吉田湊跡で、吉田湊は豊川上流奥三河からの物資の集積地であり、舟運で賑わいをみせました。また、ここから伊勢参りに舟で渡る人も集まりました。

 この公園には大正5年(1956年)に架けられた豊橋の親柱が展示されています。

 

 再び豊橋へ戻ります。かつて、吉田城主の池田輝政は城下を整備するにあたり、この付近に木橋を掛けて吉田大橋と呼ぶようになりました。明治になって、現在の国道1号(上流側)に架かる橋を吉田大橋、この橋は豊橋と名前が変更になりました。

 

 豊橋を渡ります。豊川は海にも近く、かなり、水量が多いです。また、今日は風が強く、先日の大井川を渡った時を思い出します。

 

 橋の途中から吉田城の鉄櫓が見えますね。

 

 豊橋を渡り切り、とよばし北交差点を左折してしばらく豊川沿いを歩きます。

 

 すぐの右手には豊川稲荷遥拝所の石碑が立っています。かつて、ここ下地には豊川稲荷へ詣でる人々が迷わないように大鳥居と道標が立っていました。また、遥拝所も設けられ、ここでお参りしても同じご利益が得られると考えられていました。

 

 その先の右手には聖眼寺があります。

 

 境内には松葉塚と呼ばれる芭蕉句碑があります。

 松葉(ご)を焚いて 手拭あふる 寒さ哉

 貞享4年(1687年)冬、芭蕉が弟子の杜国のもとを訪れるためにこの寺に立ち寄った際に詠んだ句です。

 門前には松葉塚の標石と説明板が立っています。

 

 下地地区を進みます。

 

 下地交差点の手前に一里塚碑が立っています。下地の一里塚で、日本橋から数えて74里目の一里塚です。

 

 その先には、元禄16年(1703年)創業のヤマサンがあります。大豆、菜種の搾油が始まりです。

 

 さらに、東海道を進みます。

 

 趣のある町並みです。この道も遥か先まで続く直線道です。

 

 一里塚碑から歩くこと20分弱でT字路の角に瓜郷遺跡への案内板があるので、右折して寄っていくことにします。

 

 復元された住居跡が見えてきます。

 

 辺りは小公園として整備されています。

 

 

東海道(20)二川~吉田宿~国府 その4へ続きます。

 

東海道(20)二川~吉田宿~国府 その2へ戻ります。