今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

東海道(20)二川~吉田宿~国府 その2

 

2023年10月6日

 

吉田城曲尺手門

 

 東海道は東惣門から城域の南側を通っていました。西へ向かって歩いて行くと、街道はくすの木通りを横切ります。くすの木通りの中央分離帯には吉田宿の碑が立っています。

 

 右手すぐのところには吉田城に通じる曲尺手門がありました。その北側は城内になります。

 

 東海道は次の十字路を左へ入ります。

 

 突き当りを右折します。比較的大きな通りには東海道の標識が立っています。

 

 次の信号のある交差点は直進ですが、吉田城址へ向かうために、右折します。

 

 交差点を右折したすぐの左手には豊橋市道路元標があります。

 

 その先にはかつて吉田城大手門がありました。碑が立っています。


 大手門跡を過ぎると国道1号に出るので、国道を横断するために右手の横断歩道橋を渡ります。

 

 国道を渡る前から正面で目立っている建物は豊橋市公会堂です。公会堂は昭和6年(1931年)に市制25周年を記念して建てられました。太い柱とそれを繋ぐアーチはロマネスク様式の佇まいを見せています。

 

 敷地の一角には、公会堂の屋上ドームの周りに鎮座する、かつての鷲の塑像が展示されています。昭和6年建築当時のものだと記されています。

 

 公会堂の脇を抜けると正面には吉田城址のある豊橋公園があります。門の脇には三の丸口門跡の石碑が立っていて、背後には大きな石が見えます。これは土塁の断面でしょうか。それとも鏡石でしょうか。

 

 公園に入るとそこは三の丸です。

 

 二の丸口門跡を通って、二の丸へ入ります。

 

 二の丸から本丸へ向かいますが、本丸へ通じる南多門は石垣修復中で閉鎖されています。どうやら裏御門へ迂回すると本丸鉄櫓(くろがねやぐら)へは行けるようです。

 

 本丸を囲む堀の周りを右手方向へ進みます。確かに、石垣の工事がなされています。

 

 東側に回り、堀に架かる土橋を渡ると裏御門跡に着きます。ここから本丸へ入ります。

 

 吉田城鉄櫓です。吉田城は永生2年(1505年)に牧野古白が今橋城として築城しましたが、後に吉田城と改められました。永禄7年(1564年)に徳川家康が攻め入り、酒井忠次が城主となり、徳川家康が関東へ移封された後は、池田輝政が城主になりました。輝政は城域や城下を整備して今の町割りの原型を作っています。関ヶ原の戦いの後、池田輝政は姫路に移り、江戸時代は東海道の要所として徳川家の譜代が城主を務め、そのまま明治維新を迎えました。

 吉田城には天守は存在しないとも、鉄櫓が天守だったとも言われています。鉄櫓は現在、資料館として復元されています。

 

 当時の様子は本丸二之丸略絵図に記されています。

 

 本丸の模型を見ると右下の鉄櫓はひときわ立派な建屋で、天守閣と言っても良いのではないでしょうか。

 

 鉄櫓脇の武具所跡から見た豊川です。左手奥は国道1号の通る吉田大橋です。さらにその先には、これから渡る豊橋が見えます。

 

 東海道に戻り、先に進みます。すぐに、田原街道(国道259号)との交差点に出ます。

 

 交差点の手前には吉田宿問屋場跡の標柱が立っています。

 

 交差点を直進するとかつての吉田宿の中心地に入ります。

 

 右手、車道脇の歩道には吉田宿本陣跡の標柱が立っています。

 

 標柱の前のうなぎの「丸よ」には本陣跡の石碑と説明板があります。この場所には清須屋本陣とその東隣には江戸屋本陣と、2軒の本陣がありました。

 

 さらに札木町を進みます。

 

 本陣跡のはす向かいには脇本陣跡の石碑が立っています。

 

 脇本陣跡の先には菜飯田楽のきく宗があります。昼飯をここで取っていこうかと思いましたが、開店まで30分もあるので、そのまま先に進むことにします。

 

 次の信号のある交差点の角には松葉公園があります。

 

 公園前の角に東海道吉田宿の石碑が立っています。

 

 この交差点を右折してしばらく歩くと蒲郡街道(国道23号)との交差点に出ます。ここは直進します。

 

 

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