今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

東海道(25)桑名~七里の渡し・桑名宿~四日市宿~近鉄四日市 その1

 

2023年11月12日

 

桑名宿

 

 近鉄四日市から電車に乗り桑名駅に7:50に着きました。空は雲に覆われていますが、雨は降らないと思います。気温はそう寒くはありません。時刻は7:55、東口から七里の渡し場へ向けて歩き始めます。

 

 駅前広場から北へ向かい、有楽町交差点を右折して八間通りに入ります。

 

 朝の八間通りは人も車もまばらです。

 

 有楽町交差点から歩くこと15分弱で東海道との交差点に着くので、左折して東海道に入り、桑名の渡し方面へ向かいます。

 

 東海道はベージュの砂を敷き固めた道になっています。

 

 すぐに伊勢国一の鳥居のもとへ出ます。桑名の渡し場一帯は公園になっています。

 

 右手には蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)を模した櫓が建ち、渡し場の雰囲気を出しています。蟠龍櫓は広重の浮世絵にも描かれ、東海道を旅する人が桑名に入る前に必ず目にする光景です。蟠龍とは天に昇ろうとしている龍のことだそうです。

 

 堤防の上に立つと雄大揖斐川とその向こうに長良川も見えます。

 

 堤防から一の鳥居を望みます。この鳥居は伊勢神宮五十鈴川に架かる宇治橋手前にある鳥居を移設したものです。伊勢神宮式年遷宮ごと(20年ごと)にもらい受け、桑名では、木曳きの行事が行われます。

 ちなみに、宇治橋手前の鳥居はその前の式年遷宮時に、外宮神殿の棟持柱を利用して建てられたもので、神殿で20年、宇治橋前の鳥居で20年経過した木がこの地の鳥居になっています。また、宇治橋の内側に立つ鳥居は、関宿の東海道と伊勢別街道との追分に立つ鳥居に移されます。

 

 それでは、鳥居をくぐって東海道歩きを始めます。

 

 まずは鳥居の前を右に入り、本陣、脇本陣跡へ向かいます。かつての大塚本陣跡には現在、料亭船津屋が建っています。

 

 船津屋の塀にあるのは歌行燈歌碑です。

 明治の文豪、泉鏡花明治42年(1909年)にここ船津屋に宿泊し、この時の印象をもとに小説「歌行燈」を書き上げました。それから時が経ち。昭和14年(1939年)に劇作家久保田万太郎がここ船津屋に宿泊して、戯曲「歌行燈」を書き上げました。俳人でもあった万太郎は船津屋の情景を詠んだ句が、

 かわをそに 火をぬすまれて あけやすき

 

 大塚本陣跡の船津屋の東隣は脇本陣駿河屋がありました。

 

 脇本陣駿河屋跡には料理旅館山月がありましたが、今は更地になっています。

 

 七里の渡しの石碑を見つつ、東海道の先を進みます。

 

 左手には、舟会所跡と問屋場跡の説明板が立っていますが、今はその場所は特定されていないようです。

 

 先ほどは逆方向から歩いてきましたが、桑名宿の町並みです。桑名といえば焼き蛤です。朝が早くどこも開いていませんが。

 

 路地を左へ入ると北大手橋が架かっています。

 

 堀川には往時の桑名城石垣が残っています。

 

 堀川(三の丸堀)を眺めて、東海道に戻ります。右手の歌行燈本店は明治10年(1877年)の創業で、泉鏡花の歌行燈にも出てきたうどん店です。泉鏡花の歌行燈にあやかって店名を変えました。

 

 その先で、駅から歩いてきた八間通りに出るので、左折して桑名城址へ寄り道します。

 

 多門橋で先ほど見た堀川を渡ります。

 

 次の船入橋で内堀を渡り、本丸へ向かいます。

 

 こちらの二の丸堀方面は結構幅があります。かつては高い石垣がそびえ立っていたことでしょう。

 

 初代桑名藩本多忠勝像があります。このあたりは三の丸跡でしょうか。

 

 桑名城址一帯は九華公園と呼ばれています。桑名城は扇城とも呼ばれていました。九華(きゅうか)は「くわな」とも読み、中国の九華扇と掛け合わせたということです。

 

 イチョウが色づいていますね。

 

 橋を渡って本丸跡へ向かいます。

 

 本丸の南西角にあった神戸櫓跡です。

 

 

東海道(25)桑名~七里の渡し・桑名宿~四日市宿~近鉄四日市 その2へ続きます。