今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

鎌倉街道上道(12)大橋から武蔵嵐山 その2

 

2024年1月27日

 

大蔵

 

 笛吹峠から平地まで下り、源氏ゆかりの大蔵地区へ入ります。県道172号との交差点の手前の十字路を右へ入ると、源義賢の墓の標識が立っています。

 

 「御廟堂 帯刀先生源義賢公」と記された石碑の先の鳥居をくぐります。「帯刀先生」とは後の近衛天皇を警備する官職の長を指し、「たちはきのせんじょう」と読むそうです。

 

 その先には源義賢の墓と言われる五輪塔が御堂に納められています。

 

 源義賢源為義の次男(長子は頼朝の父 義朝)で、ここ大蔵で勢力を張っていましたが、久寿2年(1155年)に甥の源義平(頼朝の兄)に討ち取られてしまいます。この時、木曽に逃れたのが義賢の次男である義仲です。

 説明板によるとこの五輪塔は埼玉県下で最古のものだそうです。

 

 道を隔てた反対側には源氏三代供養塔があります。志半ばで倒れた源義賢、その子の義仲、孫の義高の供養のために建立されました。

 木曽へ逃れた、後の義仲は以仁王の平家追討の令旨に呼応して、戦いの末に平家を西国へ追いやりました。京に入った義仲は朝日将軍の称号を受けましたが、後白河法皇との間が不和になり、その後、法皇から義仲追討の命が頼朝に下りました。義仲は北国へ逃れる途中、近江国で討ち取られてしまいました。

 義仲の嫡子義高は、入間川の清水八幡宮を訪れた時に述べましたが、鎌倉からここ大蔵か木曽へ逃れる途中、入間川辺で頼朝の手勢に討ち取られてしまいました。三代にわたり、一族争いの巻き添えになってしまいました。

 

 鎌倉街道に戻り、県道172号との交差点を左折します。お地蔵様の隣には、鎌倉街道の碑が立っています。

 

 交差点を左折したすぐの右手へ入ると、大蔵館跡の説明板が立っています。説明板によると、大蔵館は平安時代末期に源義賢によって築かれました。館の中心はこの先西へ行った大蔵神社あたりと言われています。現在見られる館の規模は義賢の作ったものではないと考えられ、南北朝~室町、戦国時代と、度重なる戦乱のために改築されていったと言われています。後ろの土盛りは街道に面していた東側の土塁跡です。

 

 さらに西へ進むと、大蔵神社があります。この辺りも土塁を見ることができます。

 

 道端には、「史跡 大蔵館址」の石碑が立っています。

 

 大蔵神社へ参拝します。外から見ると、土塁の内側に鳥居が立っています。

 

 参道を進みます。

 

 社殿に向かって左手にある富士浅間神社裏の土塁上に立つと、西側の深々とした堀の跡を見ることができます。

 

 大蔵神社から信号のある交差点まで戻り、鎌倉街道に入ります。この辺りは大蔵宿があり、交通の要所として、鎌倉街道を行きかう荷駄や都幾川の舟運で栄えました。

 

 すぐの左手奥には向徳寺が見えます。

 

 向徳寺は鎌倉時代に創建された時宗の寺で、藤沢の遊行寺の末寺です。

 

 山門の脇には、向徳寺にある板碑のいくつかが屋根付きの柵の中に納められています。内部の写真はうまく撮れませんでした。

 

 板碑の配置図です。高さや年号などが記されています。一番古いものは1250年頃の阿弥陀如来像です。

 

 街道の先を進むと、やがて、都幾川の河原に出ます。右手一帯はキャンプ場が広がっていて、キャンプ場のトイレを借りました。

 

 学校橋を渡ります。正面の対岸には丘陵地帯が広がります。

 

 上流(西側)の都幾川です。左手の土手道には桜並木が続いています。桜が咲くと素晴らしいところなのでしょう。

 

 橋を渡り終わると急坂になります。

 

 坂の途中右手には、蛇坂の水神塔が祀られています。都幾川の舟運に関わる人々が、安全祈願に建立したと言われています。

 

 さらに、急な蛇坂を上ります。

 

 台地の上に出ると、その先で国道254号との交差点に出ます。鎌倉街道はここを直進しますが、寄り道のために国道を左折します。

 

 交通量の多い国道脇の歩道を進みます。

 

 史跡菅谷館跡の標識に従って、左へ入ります。

 

 

鎌倉街道(12)大橋から武蔵嵐山 その3へ続きます。

 

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