2013年5月25日
小田井宿
小田井宿入口の碑からすぐのところに東の桝形があります。江戸側の入口です。
左手に小田井宿の説明板が立っています。小田井宿は多くの姫君の休泊に使われ「姫の宿」と呼ばれていました。和宮もこの地で休憩しました。
少し歩いた右手には安川家本陣跡があります。土蔵の白壁と手入れされた松の木が街道の風情を残しています。客室部が良好に残されているそうです。
車も人もほとんど通らない静かな宿場町です。
本陣のすぐ先は上の問屋跡です。連子格子の美しい家屋です。こちらも安川家の住居となっているそうです。
左手には脇本陣跡があります。ここは標柱のみで遺構はありません。
さらに左手には下の問屋があります。門の内には切妻屋根の建屋が見えます。
問屋場の先、小松屋商店あたりが西の桝形になっていて、京側の入口でした。
左手には小田井宿跡の碑が立っています。
佐久市に入ります。
左手には古い佇まいの小林製菓があります。趣のある看板が架かっています。
県道9号と合流します。
静かな街道歩きはここで終わりです。県道9号は比較的交通量の多い道です。岩村田の中心地へつながっています。
すぐの右手奥には皎月原(こうげつはら)と呼ばれる市の名勝地があります。
ここには「皎月の輪」という伝説が残っています。用明天皇元年(586年)皎月という官女が佐久の地に流されてきました。官女はしばしば愛馬の白馬に乗って小田井の原をめぐっていました。ところがその白馬は天の竜馬であり空を駆け巡りました。皎月は近くの山の上に立って、われは白山大権現だと言って岩の中に消えていきました。その後も権現様は小田井の原で馬を乗り回し、その跡には草も生えなかったことから「皎月の輪」と呼ばれました。
中山道に戻ってしばらく歩くと、左手前方に木々の茂る小さな丘が見えてきます。ここには鵜縄沢の一里塚があります。
歩道から見えるところに説明板がありますが、草木を分け入って丘を登っていくと一里塚の碑が立っています。説明板によると、この一里塚は中山道開設時に造られたものですが、その後の街道の改修により取り残されました。
日本橋から数えて42里目の一里塚です。
上信越自動車道の上を越えます。佐久インターの出口が見えます。
その先の歩道橋の上で振り返ると、浅間山の雄大な姿を見ることができます。
岩村田宿
左手の石垣の上に住吉神社があります。このあたりが岩村田宿の江戸側の入口でした。
少し先の右側の歩道に善光寺道道標が立っています。かつてこの地にあったものを復元したものです。ここから右へ入る道が善行寺道のようです。 小諸で北国街道(善光寺街道)と合流します。
住吉交差点の先、左手に武田信玄ゆかりの龍雲寺があります。昭和に入って武田信玄の遺骨が発見されました。
岩村田の商店街に入ります。
岩村田宿は内藤家の城下町だったので、本陣や脇本陣を置いていませんでした。替りとして龍雲寺や西念寺が利用されました。また、旅籠数も8軒と少なく、比較的小さい宿場町でした。しかし、中山道、善光寺道、佐久甲州街道が宿内を通り、交通の要所でした。このため、穀物などの物流の中心地でもありました。
遺構はみられませんが、屋根付きの歩道には「中山道岩村田宿」と書かれた提灯がいくつも下がっていて、宿場町を盛り上げていました。
屋根付きの商店街は相生町交差点で終わります。中山道はここを右に曲がります。佐久甲州街道との追分で、直進方向は甲州方面に繋がっています。
相生町交差点からしばらく歩くと小海線の踏切を渡ります。抜け道なのか結構車の通りがあります。
道なりに岩村田高校、浅間総合病院の脇を通り、右にカーブする正面に相生の松があります。
縁起の良い名前だったので、和宮もここで休憩を取りました。現在の松は三代目だそうです。
すぐに国道141号との交差点、浅間病院西交差点に到着します。本日の街道歩きはここまでとします。右折して佐久平駅に向かいます。
15分ほどで佐久平駅に着きました。時刻は13:40です。5時間50分の行程でした。
佐久平駅から新幹線に乗り込み、たったの10分で軽井沢駅に到着しました。駅前通りに置いた車に戻り、帰路につきました。