今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

日光街道(5)間々田から自治医大 その1

 

2014年2月1日

 

間々田

 

 9:00過ぎに間々田駅に到着しました。天気は青空も見えますが、雲は多めです。気温はおそらく0℃くらいでしょう。日中は10℃くらいまで上がるようですが、風が冷たく寒いです。今日もシェルジャケットにマフラーを巻いて街道歩きに臨みます。

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 9:10に歩き始めます。駅前の道を進み、本日のスタート地点である間々田駅入口交差点を右折して日光街道に入ります。

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 国道4号を歩き始めて数分の右手には車屋美術館があります。江戸から明治にかけて肥料問屋を営んでいた豪商小川家の建物で、主屋、米蔵や土蔵などが国の登録有形文化財に指定されています。現在、米蔵が美術展示室として利用されています。

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 車屋美術館からさらに5分ほど歩いた消防署の先、右手に逢いの榎の碑と説明板が立っています。ここは、江戸と日光の中間点にあたり、目印のために榎が植えられていました。江戸から18里、日光から18里の距離にあります。間(あい)の榎と呼ばれていましたが、いつしか逢いの榎と呼ばれるようになり、縁結びの木として祀られるようになりました。

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間々田宿

 

 逢いの榎の先、右手に琴平神社があります。思川の舟運の安全を願って祀られた神社と言われています。

 また、琴平神社前の国道に架かる間々田歩道橋があるあたりにかつての間々田宿の入口がありました。

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 その先、左手には、栃木県の無形文化財に指定されている間々田ひものお店があります。

 日本古来より伝わる組手紐は、かつては兜の緒などに使われていました。間々田紐の始まりは大正年間のようです。

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 間々田歩道橋から5分ほど歩くと、間々田交差点に差し掛かります。このあたりが間々田宿の中心部でした。

 交差点の先の左手駐車場フェンスに問屋場跡の説明板が立っています。

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 さらにその先の左手にある電気屋の駐車場には本陣跡の説明板が立っています。代々、青木家が務めていました。

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 本陣跡から5分ほどで、左手には浄光院があります。山門の上に梵鐘が載っています。なかなか見られないのではないでしょうか。

 かつてはこの近くに間々田宿の日光側の入口がありました。

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 浄光院から10分強で千駄塚の交差点に着きます。その先、300mほど歩いた左手奥に浅間神社の参道が続いています。突き当たりの鳥居の後ろが小高い丘になっていて、その上に社が木々の中に建っています。この丘は、6世紀のものと見られている円墳の古墳だそうです。千駄塚古墳と呼ばれています。鳥居の脇に石碑と説明文が立っています。

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 浅間神社から10分弱で、栗宮南交差点に着きます。交差点を渡った左角に西堀酒造があります。明治5年(1872年)創業で、門外不出という地酒の蔵元です。仕込み蔵、長屋門、煙突などが国の登録有形文化財に指定されています。

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 粟宮南交差点から10分弱で、粟宮交差点に着きます。交差点手前には安房神社の鳥居が立っています。神社は少し先の奥にあるようです。安房神社は天慶2年(939年)に藤原秀郷平将門討伐を祈願した神社です。

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 粟宮交差点で道は二手に分かれます。ここで国道4号は左に分かれますが、日光街道は直進方向へ進みます。

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 道は県道265号となりますが、市街地へ入ったせいか車の量は相変わらず多いです。途中、長屋門のあるお宅を見ることができます。

 粟宮交差点から20分で、国道50号の下を潜ります。神鳥谷東交差点です。「ひととのや」と呼ぶそうです。

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小山宿

 

 神鳥谷東交差点から10分強で宮本バス停があります。かつてはこのあたりに一里塚があったそうですが、今は何も残っていません。小山の一里塚で、日本橋から数えて、20里目の一里塚です。小山宿に入ってきました。

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 その先、須賀神社の参道が左手にあります。神社は、この先の国道を越えた先に見えます。参道にはケヤキが植えられ、朱塗りの灯篭が並んでいます。

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 すぐ先の信号を越えたところから中央町に入りますが、左手に明治天皇御駐輦の碑が立っています。その奥には脇本陣の玄関が見えます。唐破風の立派な屋根ですが、塀に囲まれて全容が分かりません。

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 脇本陣の向かいには控本陣がありました。

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 ここは小山宿通りという名前のようです。右手前方の常陽銀行には問屋場がありました。

 小山宿では本陣、脇本陣問屋場とそれを示すものはありません。

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 脇本陣跡から5分くらいで駅前上町交差点に着きます。日光街道は直進しますが、右に曲がると正面が小山駅になります。ここで寄り道のため、交差点を左折して祇園城通りへ入ります。

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 次の信号を左折すると、小山評定通りとなり、右手に市役所が見えてきます。その駐車場が途切れる端から市役所の敷地に入ると、正面の芝生のスペースに小山評定跡の由来石碑が立っています。

 上杉征伐に出向いた徳川家康が、この地で石田三成が家康打倒の兵をあげたことを知りました。家康は軍議を開き、秀吉恩顧の武将たちからも三成と戦を交える賛同を得ることができました。これにより、家康は関ヶ原の戦いで勝利を勝ち取ったわけですが、この軍議が小山評定と呼ばれ、この地で行われました。

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 再び祇園城通りに戻り、さらに、左折します。この交差点の南西角一帯の広い敷地は小山御殿跡です。しばらく歩くと左手に、祇園城跡と小山御殿の説明板が立っています。小山御殿は、将軍家の日光社参の際の、休憩や宿泊所に充てられていました。

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 さらに、祇園城通りを進むと、思川に架かる観晃橋手前の右手の高台が祇園城址になっています。

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 石垣に沿って坂を上がると一帯が城山公園となっています。

 祇園城は一般的には小山城と呼ばれ、久安4年(1148年)に小山氏によって築城されたと言われています。その後、北条氏の支城となりましたが、豊臣秀吉の北条征伐の後、本多正純の居城となりました。しかし、元和5年(1619年)に正純が宇都宮城へ移封となり、小山城は廃城となりました。

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 城山公園からは、思川の流れを望むことができます。温かくなり汗をかき始めました。

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 城山公園から、再び駅前上町交差点に戻り、さらに小山駅に行って、昼食を摂りました。

 休憩後、駅前上町交差点に戻り、右折して日光街道を歩き始めます。交差点から200mほど歩いた左手には、元須賀神社の鳥居が立っています。民家が両側に迫った参道の向こうに神社が見えます。先ほど、参道前を通った須賀神社は、元々はここにあったようです。

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 駅前上町交差点から20分ほどで、JR両毛線の踏切を越えます。踏切には「第一奥州街道踏切」と名前が付けられています。

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 さらに、15分で左手に日枝神社の入口があります。参道には樹齢400年、高さ30mを超えるケヤキの木が3本残っています。

 日枝神社は、天正18年(1590年)の豊臣秀吉小田原征伐の際に小山城は落城し、その後、かつての砦跡に社殿が移されました。これらのケヤキは、その時に植えられたものだそうです。存在感のあるケヤキです。

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 日枝神社入口から200mほどで喜沢東交差点に着きます。変形五叉路になっていて、左斜め方向が壬生通りで、この地は喜沢追分と呼ばれています。壬生通りは、壬生宿、鹿沼宿を経て、日光街道今市宿に通じています。日光西街道とも呼ばれています。

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日光街道(5)間々田から自治医大 その2へ続きます。

 

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