今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

東海道(16)掛川~掛川宿~袋井宿~見付宿~磐田 その6

 

2023年4月22日

 

見付宿

 

 今之浦川に架かる中川橋を渡り、大見寺入口の角に東海道見付宿の碑が立っています。

 見付宿の名前は、西から歩いてきた旅人が初めて富士山を目にする(見付ける)ことから付けられたと言われています。

 

 大見寺へ通じる道は寺小路と呼ばれています。また、大見寺境内に徳川家光お茶屋御殿があったことから「御殿小路」とも呼ばれていました。

 磐田市では17の小路名を示した説明ブロックを歩道に敷いています。これらブロックを読みながら町を歩くのもなかなか良いものです。

 

 左手の予備校の建物の脇には脇本陣跡碑があります。

 

 こちらは本陣跡です。

 

 本陣跡の先には旧見付学校が建っています。明治8年(1875年)に建てられた日本最古の擬洋風木造小学校です。大正11年(1922年)に小学校は閉校しましたが、国の史跡に指定されています。基礎の石垣は遠州横須賀城の石垣を移設しました。

 

 小学校の隣は淡海國玉神社(おうみくにたまじんじゃ)です。

 

 淡海國玉神社の創建年代は不明ですが、平安時代延喜式神名帳にも記載されている由緒ある神社で、遠江国の総社とされています。

 

 街道に戻ると脇本陣三河屋の薬医門が復元されています。他家に移築されていましたが、市に寄贈され、再びこの場所に移築されました。

 

 栄光のへの道です。

 

 こちらは西坂の梅塚です。娘を怪物の犠牲に供えた家の前に梅の木を植えたという謂れが残っています。

 

 やがて信号のある交差点に着きます。東海道はここを左折します。

 

 ここは東海道姫街道との追分で、正面の道が姫街道になります。姫街道浜名湖の北側を通って御油宿へ通じている街道です。古くから東西を結ぶ街道筋でしたが、東海道が整備されると浜名湖の南を回るようになり、北回りは本坂街道と呼ばれるようになりました。しかし、比較的取り締まりの緩い本坂街道を通る婦女が多くなり姫街道と呼ばれるようになりました。

 

 街道を南に向けて歩いて行きます。

 

 右手の広大な土地は遠江国分寺跡です。金堂、講堂、塔、中門、回廊、南大門跡が確認されています。

 

 樹木は地中の遺跡を傷めるため伐採されているそうです。

 

 塔跡です。高さ66mの七重の塔が立っていました。

 

 東海道を隔てた向かいにあるのは府八幡宮です。天平年間(729~748年)に遠江国司が赴任した際に、この地が治まるように祀られたのが始まりです。

 

 磐田駅近くの交差点に着きます。東海道はここを右折して西に向かいます。本日の街道歩きはここまでとして、その先正面にある磐田駅へ向かいます。

 

 そして、磐田駅に到着しました。時刻は15:40で、本日の行程は6時間50分でした。

東海道本線に乗って今日の宿泊場所の浜松へ向かいます。

 

 

浜松城

 

 浜松のホテルでチェックインした後に、浜松城へ行ってみます。明日に訪問予定でしたが、順番を変えて今日、行きます。

 

 まずは天守閣へ。天守門とその先の浜松の町方面です。

 

 北側の眺めです。三方ヶ原はこちらの方向?

 

 元亀元年(1570年)に今川氏滅亡により、徳川家康遠江統治のために岡崎から浜松に移ってきました。当時、引間城と言われていた城を浜松と名前を変え、武田氏の遠江侵攻に備えました。

 そして、元亀3年(1572年)、武田信玄と徳川・織田連合軍が激突した三方ヶ原の戦いで完膚なきまで攻め込まれ、命からがら浜松城まで逃げ帰ったという家康最大の負け戦がありました。

 時は移り江戸の世では、25代続いた城主のうち老中や大阪城代京都所司代など幕府の要職に就いた殿様を輩出し、浜松城は出世城と呼ばれるようになりました。

 

 現代の天守閣は鉄筋コンクリート造り3階建ての資料館となっています。昭和33年(1958年)に復元されました。

 浜松城の石垣は野面積みと呼ばれる自然石を積み上げる古くからの方式で造られています。また、石を横に並べていく積み方は布積と言われています。

 

 天守台の左の石垣の上が微妙に余っていませんか?

 

 こちらは天守門です。平成26年(2014年)に復元されました。

 

 門を出て左へ歩くと、家康公が立っています。

 

 本丸南広場から天守を望みます。

 

 

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