今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

東海道(17)磐田~浜松宿~浜松 その1

 

2023年4月23日

 

中泉

 

 浜松から電車に乗って8:00くらいに磐田駅に到着しました。天気は曇りですが、今日は雨に降られることはないでしょう。晴れるはずです。最高気温も20℃くらいの予想なので歩くにはちょうどいい気候です。

 8:05に歩き始めます。磐田駅の駅舎のオレンジの柱は、これはひょっとして、遠江国分寺にちなんで天平風に造ったものでしょうか。

 

 駅前で目を引くのは、周りを圧倒して立っている巨木です。これは楠木で、かつてこの場所に善導寺という寺があってその境内に立っていた大木です。樹齢は700年と推定され、木の高さは18.3mもあります。善導寺の大クスと呼ばれています。

 

 すぐに、今日のスタート地点に到着し、左折して東海道に入ります。

 

 東海道に架かる小さな橋を渡ると、上り坂に差し掛かります。

 

 坂道を上り切った右手、中泉交流センターの前に、江戸時代の中泉絵図と大正時代の中泉の地図が掲示されています。

 大正時代の地図には、東海道線磐田駅はかつて中泉駅という名前だったようで、中泉駅から中泉軌道が分岐していました。中泉軌道は天竜川沿いの池田村までの9kmを結ぶ人力車両で、天竜川で運ばれた鉱物や木材、農産物を中泉駅まで運搬していました。廃止された昭和5年(1930年)まで、23年間運行されていたようです。中泉という地名はこの辺りの中心地の名前でした。

 

 その先で県道261号に入ります。

 

 歩道脇のフェンスに囲まれた狭いところに黒坊大権現が祀られています。咳や熱病の神様で、盗賊の難にあったインド人の旅僧を葬ったと言われています。くろん坊様と呼ばれています。

 

 一言橋で祝川を渡ります。本多平八郎忠勝がしんがりで武田軍の猛攻を食い止めた一言坂の古戦場は祝川に沿って北に1km強行ったところにあり、近くを通る県道413号沿いには古戦場の碑が立っています。

 

 寺谷用水を渡ります。

 

 名残の松が現れます。

 

 ぽつぽつと残っています。

 

 右手には宮之一色の一里塚跡があります。盛り土の上に石碑が立っていますが復元されたものです。日本橋から数えて63里目の一里塚です。

 

 説明板には旅人が一里塚の木の下で休憩している当時の街道の様子が示されています。

 

 松向寺の入り口には、文政10年(1828年)に建立された宮之一色秋葉山常夜燈があります。

 

 龍の彫り物があり、龍燈とも呼ばれています。

 

 さらに松並木が続きます。

 

 森下交差点で、道は二又に分かれ、東海道は左の道へ入ります。

 

 磐田市では歴史の道を制定しています。この場所が西の起点で、東海道を辿り宮之一色一里塚を通って、そこから北に折れて一言あたりまで続いています。

 この場所は東海道本線豊田町駅への分岐点にもなっています。

 

 若宮八幡宮があります。仁徳天皇応神天皇神功皇后を祭神としています。

 

 左手には明治天皇御座所址の碑が立っています。

 

 長森地区に入ると右手に長森立場の説明板が立っています。この辺りでは、あかぎれや切り傷に効いた膏薬「長森かうやく」を商う店があり、街道の土産として人気がありました。

 

 すぐの信号のある交差点を右折します。

 

 新興住宅地といったところを進みます。

 

 やがて県道261号との交差点、長森交差点が見えてきました。東海道は手前で左折して天竜川の土手へ向かうことになっていましたが、通り過ぎてしまったようです。

 

 長森交差点を左折するとその先には、天竜川橋が見えてきます。

 

 橋の手前の土手道を左折して、明治時代の木橋跡付近へ戻ります。土手から東側を見ると見逃した東海道の道筋を望むことができます。

 

 振り返ると天竜川の河原が広がっています。明治元年(1868年)の明治天皇東幸の際にこの地から船を並べた舟橋が架けられましたが、それは一時的で、最終的には明治9年(1876年)に木橋が架けられました。

 

 天竜川橋です。昭和8年(1933年)に竣工した、長さが1,000m弱の鉄筋の橋です。しかしこの橋には歩道がなく、渡るには危険極まりないので、その先の新天竜川橋で渡ります。

 

 天竜川橋の袂まで戻ります。

 

 その先の新天竜川橋へ向かいます。

 

 

東海道(17)磐田~浜松宿~浜松 その2へ続きます。