今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

東海道(18)浜松~舞坂宿~新居町 その1

 

2023年5月20日

 

浜松宿西木戸跡

 

 1ヵ月ぶりに浜松駅に降り立ちました。天気は晴れの予報です。一昨日、一昨々日と関東地方では30℃くらいの暑さで、この週末もどうなるかと思いましたが、今日明日の浜松地方の最高気温は25℃くらいです。海風も期待して、なんとかなるでしょう。

 また、先週末に仲間とキャンプに行って来て、意外と疲れが残っていますが、夏季の暑い時期を前に最後のチャンスになりそうなので、決行に至りました。今日も友人のSさんとご一緒させていただきます。8:35に歩き始めます。

 

 10分ほど歩き、本日のスタート地点の成子交差点に出ます。東海道は右手から直進方面へ右折します。かつてはこの辺りに浜松宿西木戸がありました。交差点を直進して東海道に入ります。

 

 5分ほど歩き五差路の菅原町交差点に着きます。斜め左前方の道へ入ります。

 

 菅原交差点の左手の角には祠に収められた地蔵尊があります。子育て地蔵尊です。

 

 交差点からしばらく歩き、東海道本線の下をくぐると、国道257号に出ます。

 

 国道257に入り、すぐの西浅田北交差点で左へわずかにカーブした先は八丁縄手と呼ばれる縄手道が続いていました。そういえば川崎宿あたりにも八丁畷がありましたね。

 その先で東海道新幹線の高架をくぐります。

 

 鎧橋を渡ります。平安時代比叡山延暦寺と、ここから北にある鴨江寺の僧兵同士がこの地で戦を行いました。その際、鴨江寺軍は鎧を身に付けてこの橋を守ったと言われています。

 

 すぐのところに八丁縄手の標柱と説明板があります。先ほど通過した西浅田北交差点付近から続く道をいつしか八丁縄手(畷)と呼ぶようになりました。真っ直ぐ続く松並木の道だったそうです。

 

 八丁縄手の標柱の先には若林の一里塚がありました。道の反対側に標柱があったようですが、残念ながら見過ごしてしまいました。日本橋から数えて66里目の一里塚です。

 その先の東若林交差点の街道の両脇には二ツ御堂が立っています。奥州平泉の藤原秀衡の愛妾は、秀衡が京で病に倒れたと聞き、京へ向かいました。その旅の途中、この地で秀衡が亡くなったことを聞かされました。そして、街道の北側にその菩提を弔うために阿弥陀如来を安置したお堂を建てました。その後、愛妾はこの地で亡くなりましたが、秀衡の死は誤報だったのです。

 病から回復した秀衡は帰国の際に、愛妾を弔うために街道の向かいの南側に薬師堂を建立しました。

 こちらは愛妻の建立した北側のお堂です。

 

 そして、向かい合う南側のお堂です。傍らには明治天皇御野立所記念碑も立っています。

 

 北側のお堂から奥に入ると八幡神社があります。大きなクスノキや松の林に囲まれた神社です。

 

 街道に戻り、先へ進みます。名残の松がぽつぽつと現れます。

 

 若林町付近に高札場跡の碑が立っています。

 

 右手には諏訪神社があります。大永4年(1524年)に上諏訪社より勧請したのが始まりです。

 

 秋葉山常夜燈籠が立っています。石垣の上に建つ木造屋形のお堂です。

 

 次は熊野神社です。康永3年(1344年)に創建されたという記録もありますが、確かではないようです。熊野大権現に仕えた北朝側の神官がこの地に住み着いて、祭神を奉祀したのが始まりと言われています。

 

 街道の右手脇の植栽の中に領界石が立っています。「従是東濱松領」と記されています。浜松領と堀江領の境に立っていましたが、当時の境界は少し西側(この先)にありました。

 

 領界石や説明板はこの植栽の中に埋もれています。

 

 次の信号のある交差点は増楽町(浜松領)と高塚町(堀江領)の町境になりますが、その脇に堀江領境界石の標柱と説明板が立っています。

 

 右手のアパートの庭には高札場跡と秋葉燈籠跡の標柱と説明板が立っています。東海道分間延絵図には高塚村の高札場と秋葉燈籠が記されていました。

 

 右手のトランクルームの敷地の角には麦飯長者跡の標柱と説明板があります。高塚に住む小野田五郎兵衛という長者が明治維新(1868年)まで、東海道を行き来する旅人に、誰彼の区別なく湯茶や麦飯を振る舞っていました。いつしか彼のことを麦飯長者と呼ぶようになりました。

 

 その先の高塚駅入口交差点の近くに、ちょうどマックがあったので水分補給のために休憩を取りました。

 30分くらい店内で涼んでから、街道歩きを再開します。次の二又は右の道へ入ります。分岐には夢舞台篠原道標が立っています。

 

 二又を右手に入って5分ほど歩くと、左側には立場本陣跡があり説明板が立っています。明治元年(1868年)に明治天皇が小休止された記録も残されています。このあたりの字名として立場という名前が残っています。

 

 東神明宮です。建歴2年(1212年)、浜名湖の神明島に鎮座していました。永徳年間(1381から1384年)にこの場所に移ってきました。祭神は天照皇大神豊受姫大神です。

 

 右手の民家の生け垣には一里塚の説明板が立っています。篠原の一里塚で、日本橋から数えて67里目の一里塚です。

 

 その先には篠原村の高札場がありました。

 

 ここにも秋葉燈籠があります。

 

 篠原川を渡ります。この川に限らず、この辺りの街道を横切る水路は、みな左側から右側へ流れていることにSさんは気づきました。右手の浜名湖側に流れているのだと思うのですが、左手の先は海です。そんなところに水源があるのかといった話をしていました。

 

 

東海道(18)浜松~舞坂宿~新居町 その2へ続きます。