2023年10月8日
岡崎城下二十七曲り
二十七曲りは、いったい、いくつ曲がるのでしょうか。現代の「いろは」道標は要所要所に立っているので、大まかには道筋は分かりますが、やはり、地図を片手に歩く方が安心です。
材木町1丁目交差点の反対側の角には、道標「り」が立っていて、矢印に従って交差点を右折します。
2ブロック目の十字路の左手に、道標が見えます。
道標「ぬ」は左折するように示しています。
次の道標まで西へ進みます。木まち通りと呼ばれています。
その先、伊賀川に架かる柿田橋の手前を左折します。道標「る」です。
柿田橋の袂には、これから進む方向を示す地図が立っています。ありがたいことです。
左折すると、街道脇には「材木町より下肴町」の石標があります。
川沿いの長閑な道です。
次に架かる三清橋の袂には「下肴町より田町角」の石標があり、
南側の歩道で三清橋を渡り、橋詰の交差点を通ると道標が見えてきます。
「を」は直進です。
スロープを下り、二つ目の角の右手には「わ」があり、左折します。
住宅街の中を南下します。
東海道は国道1号に突き当たり、その先の行く手を阻まれています。現代の東海道は田町角の石標を見つつ、右手方向に少しだけ歩き、八帖交差点で国道を横断してその先の街道に入ることになります。しかし、田町角を左折して岡崎城址へ寄り道をします。
国道1号を東へ少し歩くと、先ほど渡った伊賀川に架かる龍城橋袂の龍城橋西交差点に出ます。ここで、反対側の歩道に渡ります。
石垣と城壁の脇を歩くと、大手門が見えてきます。
大手門は1993年に再建されました。かつての大手門は、ここから北東へ約100mのところにある浄瑠璃寺あたりにあったようです。
大手門を抜けると案内図が掛けられています。現在地付近には七間門があり、そこを抜けるとかつての二の丸に入ります。二の丸から本丸へ行くには、太鼓門を抜けて堀脇を通るのが良さそうです。
二の丸に入ると正面で、本多平八郎忠勝がお出迎えです。
その右手には、「どうする家康」大河ドラマ館がありますが、ここは素通りします。
さらには、徳川家康像が立っています。
太鼓門跡の石垣の間を通ります。太鼓門には、城下入り口にあった籠田総門と松葉総門の開閉の時を示す太鼓が置かれていました。
太鼓門から持仏堂廓に入ると、「天下人家康公ベンチ」があります。左側が竹千代像、右側が家康像になります。さすがに、観光客がそこそこいる中、一人で座って写真も撮ってくれる人もいないので、ベンチの写真を撮って素通りします。
持仏堂廓から、弧を描く青海堀の脇を進みます。青海堀は岡崎城内でも、古い時代に造られた堀で、本丸側(写真右側)は土塁から成り、反対側は後の世に石垣に改修されました。
青海堀から土橋を渡ると本丸に入ります。その脇には芭蕉句碑があります。
木のもとに 汁も鱠(なます)も 左久良哉
花見をしていると、何もかもに花びらが埋め尽くすといった意味のようで、芭蕉が奥の細道から帰って、伊賀上野で花見をした際に詠んだ句だそうです。
本丸に入ると龍城神社があります。徳川家康と本多忠勝が祭神とされています。家康が生まれた朝に、城の上に金の龍が現れ、天に上っていったという言い伝えが残っています。
本丸の月見櫓跡からは龍城堀に架かる神橋を望むことができます。