今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

中山道(7)新町から群馬八幡 その2

 

2013年2月23日

 

倉賀野宿

 

 下町交差点あたりにかつて下の木戸があり、倉賀野宿の江戸側の入口でした。

 また、ここから東へ向けて通っている例幣使街道との追分になっています。

 下の写真は下町交差点を振り返って見たもので、左の道は例幣使街道、右の道は今歩いて来た中山道新町宿方面です。

 例幣使街道は北関東を通って楡木宿で日光西街道と合流します。 

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 分岐の角には、閻魔堂があり、常夜燈や道標も立っています。

 道標には「左 日光道 右 江戸道」と刻まれています。 

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 倉賀野宿では古いお宅を見ることができます。 

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 中町交差点を左折して烏川岸まで寄り道をします。

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 しばらく歩くと、共栄橋に出ます。

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 この近辺には烏川の河岸がありました。倉賀野は江戸との水運の集積場があり、人々が集まり大変栄えました。

 烏川の流れは清らかです。 

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 中山道に戻り、先を進みます。

 その先スーパーの駐車場と歩道の間には本陣跡碑が立っています。勅使河原本陣跡です。

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 上町交差点の手前の右手には須賀脇本陣が建っていますが、残念ながら改修工事中でした。 

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 その隣には高札場が復元されています。 

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 上町交差点を左折して、再び寄り道をします。 

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 住宅街を抜けると烏川の河岸段丘の上に立つことができます。

 空は青く、日差しもあり、風は少し冷たいですが、とても気持ちの良い場所です。 

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 右に歩くと公園の一角に大きな倉賀野城址の石碑が立っています。

 倉賀野氏が倉賀野城を築城したのは南北朝時代と言われています。その後、豊臣秀吉小田原城攻めで小田原城の落城とともに倉賀野城も開城、廃城となりました。 

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 中山道に戻り先を進みます。しばらく歩くと、右手には安楽寺があります。

 このお寺の本堂の裏には古墳があります。

 このあたりが倉賀野宿の西の入口でした。 

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 若木の松並木です。

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 スーパーの先、眼科と薬屋の間から木の生い茂った古墳が見えたので、近くまで行ってみました。浅間山古墳です。群馬県内では2番目の規模を有する古墳だそうです。

 近くに寄ると子ども達の遊び場になっていました。 

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 浅間山古墳から20分ほど歩くと国道17号の下をくぐります。

 しばらく古い街道を感じさせない道を歩いてきましたが、和田多中町地区に入ると、古いお宅がちらほら見られるようになります。 

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 新後閑町交差点の先で上越新幹線の高架をくぐります。

 高架をくぐったあたりに高崎の一里塚があったそうですが、場所は特定されていません。日本橋から数えて26里目の一里塚です。 

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高崎宿

 

 その先で上信電鉄の踏切を渡ります。

 このあたりが高崎宿の江戸側の入口でした。 

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 10分ほど歩くとあら町交差点に着きます。中山道はこのまま直進しますが、左折して高崎城址へ寄り道をします。

 左折すると正面に高崎市役所の高層ビルとその右手、道の遥か先に浅間山が見えます。 

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 城址公園の手前で右折して三の丸土塁とお堀の脇を歩きます。

 土塁には桜の木が植えられています。桜の季節には花見の名所になるのでしょうね。 

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 その先には乾櫓があります。

 高崎城は、古くは和田氏が治めた和田城がこの地にありましたが、慶長2年(1597年)に同じ高崎市内にある箕輪城主であった井伊直政が新たに築城したものです。中山道と三国街道が分岐する交通の要所に睨みを効かせるためだったそうです。井伊直政関ヶ原の戦い後は、ご存じの通り、佐和山城そして彦根城へ移りました。

 乾櫓は明治になって払い下げられたものを移築復元したものだそうです。 このような櫓を移築できるものなのですね。

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 乾櫓の脇には東門があります。

 この門も明治以降民間に払い下げられていたものを移築したものです。往時は通用門として使われていたようです。 

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 乾櫓の先を右折して中山道に戻ります。

 あら町交差点には戻らず、連雀町交差点を左折すると中山道になります。 

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 その先、中山道は本町三丁目交差点で左に曲がります。直進方面は前橋道です。

 高崎の街は高崎宿がそのまま発展していったため、昔の街道を思わせるものはあまり見かけません。しかしながら、交差点を左折したすぐの左手に黒漆喰造りの重厚な蔵のお宅がありました。旧山源漆器店の建屋で明治初期のものだそうです。 

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 しばらく歩くと本町一丁目交差点に着きます。中山道は直進しますが、右に曲がる道は三国街道となっています。

 三国街道はここ高崎と越後の寺泊を結び、上越国境の三国峠を越える街道です。上杉謙信が大軍を引き連れて、関東で力を伸ばしてきた北条氏と対峙するために、数年にわたり越後と関東を往復した、いわゆる「越山」に使われた街道として有名です。

 このあたりに、京側の入口がありました。 

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 中山道(7)新町から群馬八幡 その3へ続きます。

 

中山道(7)新町から群馬八幡 その1へ戻ります。

 

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