2022年5月6日
小田原城
馬屋曲輪から住吉橋を渡り、内仕切門をくぐると、ここも桝形になっています。左手にある大きな銅門(あかがねもん)がそびえ立っています。門の装飾に耐火を兼ねて銅が使われていました。
二の丸に入って目を引くのはイヌマキの巨木です。目通り幹囲4.5m、樹高約20mで、このねじれ具合がなかなかいいですね。樹齢はどのくらいなのでしょうか。
イヌマキの木から本丸へ向かいます。
本丸東堀に架かる赤い常盤木橋を渡り、常盤木門に向けて坂道を上ります。本丸東堀は、かつては水堀でしたが、現在は菖蒲畑になっています。
常盤木橋を渡って階段を上り、本丸の正門にあたる常盤木門をくぐります。常盤木とは常緑樹のことで、小田原城が永久不変に栄える願いが込められています。
そして、本丸にそびえ立つ天守閣です。現在の天守閣は昭和35年(1960年)に再建された鉄筋コンクリート造りで5階建となっています。1階から5階まで展示室になっていて、5階は展望デッキになっています。左手から天守閣の中に入ります。
天守閣を5階まで上り、展望デッキから見た西側の眺めです。明神ヶ岳から駒ヶ岳でしょうか、箱根の山々を望むことができます。
海側は真鶴半島が見えます。
駆け足で、小田原城を回ってきました。およそ1時間で御幸の浜交差点に戻り、右折して東海道に入ります。天守閣の資料館をじっくりみたり、総構を散策したり、石垣山の一夜城跡へ足を延ばしたりすると、1日仕事で終わらないかもしれません。後日、ゆっくりと散策したいものです。
すぐの左手には小西薬局(済生堂薬局小西本店)があります。寛永10年(1633年)の創業です。木造平屋建ての店舗は国の有形文化財に指定されています。
この辺りは中宿町と呼ばれ、上の問屋場が置かれていました。清水彦十郎本陣跡もあります。
街道の右手にはお城のような建物が建っています。おなじみ、「ういろう」のお店です。外郎(ういろう)家は室町時代から続く家柄で、元は中国元王朝の公家でしたが、元朝が明朝に滅ぼされたときに、日本に移り住み外郎家と名乗りました。外郎とは元朝の役職の名前だったそうです。その時、薬の「透頂香(とうちんこう)」と、お菓子の「ういろう」を作り始めました。
この建物は「八棟造(やつむねづくり)」と呼ばれるもので、破風を多くつけた建築様式です。
さらに、国道1号を進みます。
御幸の浜交差点から歩くこと10分強で東海道本線と箱根登山鉄道線のガードをくぐります。
その先の板橋見附交差点を右に入ります。
ここには、かつて、上方見附があり板橋見附と呼ばれていました。説明板が立っています。ここには総構の土塁を通る門が備わっていました。東海道は桝形を形成しています。
桝形を通って新幹線の高架の下をくぐります。
板橋見附の先は、国道1号のような車の往来はなくなり、静かな街道歩きに変わります。
趣のある土蔵造りの建屋は旧内野醤油店です。明治36年(1903年)に建てられました。
その先には板橋地蔵尊があります。
早川の脇を上っていきます。いよいよ箱根の山に入ります。
小田原厚木道路の下をくぐります。
高架の下にある君田島踏切を渡ります。
Y字路は左へ入ります。
さらに、もう一度Y字路を左へ入ります。
風祭地区を歩きます。静かな通りです。
風祭駅前のT字路を過ぎた先、右へ入る道から少し奥まったところに風祭の一里塚跡があります。
お地蔵さまと道祖神の後ろに一里塚の説明板が立っています。日本橋から数えて21里目の一里塚です。
街道は徐々に高度を上げていきます。
右手には紹太寺の入り口があります。入り口脇の地図を見ると、結構広そうだったので中には入りませんでした。
紹太寺は、小田原城主稲葉氏の菩提寺で、春日局のゆかりの寺でもあります。稲葉氏は春日局の母方の実家で、春日局(福)は稲葉正成の妻になりました。春日局の墓もあるそうです。
入生田公民館の手前の路地を左へ入り入生田駅へ向かいます。本日の街道歩きはここで終わりにします。
入生田駅に到着しました。時刻は13:50。今日は5時間40分の行程でした。すぐに、小田原行きの電車が入ってきたので、それに乗って帰路につきました。