今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

東海道(21)国府~御油宿~赤坂宿~藤川宿~岡崎宿~東岡崎 その3

 

2023年10月7日

 

長沢

 

 赤坂宿を抜けると東海道は南側と北側に連なる山々に挟まれた、音羽川の作る狭隘の谷に入っていきます。今も旧東海道国道1号東名高速道路名鉄本線が寄り添うように走っています。このような地形であったことから、室町時代には三河松平氏がこの長沢の地に防御の拠点となる城を整備しました。

 長沢城跡の説明板から歩くこと10分で、右手には巓(だけ)神社の社標と常夜燈が立っています。巓神社は北側の山々の中腹に鎮座しています。

 

 雰囲気のある旧街道です。

 

 右手には安政6年(1859年)に建立した常夜燈が立っています。

 

 こちらは飛び出し坊や、愛知バージョン?でしょうか。

 

 小さな橋を渡ると関屋交差点で国道1号に出ます。東海道は交差点の手前、川沿いの小道に入ります。

 

 ちょっとした旧道ですが、

 

 すぐに、国道と合流します。

 

 単調な国道歩きに変わります。

 

 国道に入って、延々と20分歩くと岡崎市に入ります。

 

 豊川市岡崎市との市境、本宿町深田交差点の脇に東海道にちなんだ小スペースがあります。

 

 小スペースには本宿の石碑が立っています。本宿村はこの先の法蔵寺門前にある立場として賑わい、間の宿でした。

 

 そのまま国道脇を歩くと冠木門が立っています。

 

 冠木門をくぐり、その先は国道の側道を歩きます。若い松並木が植えられています。これらも何十年も経つと立派な並木になるのでしょうね。

 

 その先で、東海道は左へ入ります。

 

 分岐には新しい道標と「本宿の歴史と文化をたずねて」と記された名所旧跡の説明板が立っています。

 

 本宿の静かな町に入ります。

 

 すぐの左手には法蔵寺へ続く道が続きます。朱色の橋を渡って寄り道をします。

 

 山門をくぐり、階段を上る先には鐘楼門が建っています。

 

 本堂です。法蔵寺は大宝元年(701年)、行基の開山と言われています。当時は出生寺と称していましたが、至徳2年(1385年)に浄土宗に改宗して法蔵寺と名前が変わりました。近世は徳川家康お手習いの寺として崇められ、門前を通る大名は下馬して通行していました。

 

 本堂の脇には、天然記念物のイヌマキの大木が立っています。行基が開山の際に植えたという言い伝えがあります。

 

 本堂から左手の坂道を上っていくと、途中に、新選組局長近藤勇首塚と胸像があります。近藤勇は慶応4年(1868年)に東京板橋の刑場で処刑され、その後、首級は京都三条河原でさらされましたが、同志がそれを持ち去り、ここ法蔵寺に埋葬したと言われています。

 

 さらに階段を上ると、東照宮が建っています。徳川家康が元康と言われていたころ戦勝祈念によく参拝していました。この本殿はいつしか東照宮と呼ばれるようになりました。朱塗りの建屋で装飾も立派です。

 

 東照宮からは法蔵寺全体を見渡すことができます。

 

 東海道へ戻る途中、街道近くには徳川家康が手植えをしたと言われる「御草紙掛松」があります。御草紙掛松は代々受け継がれ、最近では、平成17年(2005年)に虫害によって枯れてしまいました。今は4代目が立っています。周囲の石の柵は、文化12年(1815年)に旗本の木造清左衛門俊往が寄贈したものです。

 

 東海道に戻り、法蔵寺橋を渡ります。

 

 長閑な本宿の町を進むと民家の塀に「本宿古城」の説明板が架けられています。本宿古城は先ほど越えた鉢地川沿いにありましたが、岡崎城松平広忠(家康の父)に攻め入られて落城し、城跡は国道1号東名高速道路建設により残っていません。

 

 脇の空き地の奥に「←本宿古城跡」の標識があります。こちらの方角にあったようです。

 

 その先のT字路には「←本宿旧代官屋敷」への標識が立っています。

 

標識に従って 坂道を上っていくと、比較的大きな富田病院が建っています。

 

 左手、駐車場の奥には旧代官屋敷があります。江戸の世に入り、本宿は旗本柴田氏(柴田勝家の子孫)の知行地となり、富田家が明治に入るまで、代々、代官職を世襲してきました。現在の建屋は文政10年(1827年)に造られたものです。

 

 

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